2005/12/09
12月8日 たいしょうほうたいび
小学校2年生のときに戦争が始まりました。12月8日のことです。
以後毎年12月8日は大詔奉戴日ということで寒い講堂に整列しました。白手袋の教頭先生が黒塗盆を目の上に奉げ持ってしずしずと演台に進みます。校長先生がうやうやしく受け取り、巻物を読みはじめるのですが、小学生に内容はまったくわかりません。きつく指導されていますから、終わるまで頭を下げたまま。静まりかえった講堂に重々しい校長先生の声と、鼻をすすり上げる音が聞こえました。
「テンユウヲホユウシ バンセイイッケイノコウソヲフメル ワガ ダイニッポンテイコクテンノウハ」で始まり、・・・・・・・「ギョメイギョジ」で終わるのを待っていた覚えがあります。
小学校でも急速に雰囲気が変わり、国民学校と改称されてすべて号令で動くようになりました。担任の先生は中隊長、校長先生は大隊長です。 校門をくぐると先ず奉安殿に最敬礼してから校舎にはいり、「かしこくも」の言葉を聞くと即直立不動の姿勢をとるように訓練されていました。
「チンオモウニ ワガコウソコウソウ クニヲハジムルコト コウエンニ トクヲタツルコト シンコウナリ ワガシンミン ヨクチュウニ ヨクコウニ オクチョウココロヲイツニシテ・・・・・・・・・・・・ギョメイギョジ」の教育勅語を丸暗記する宿題もありました。出来なければ立たされますから、みな懸命に覚えたものです。 あの時代の子供たちは可哀相なくらいケナゲでマジメでした。
6年生のとき終戦になりましたが、それからの大人の変わり身の早さにも傷つきました。
奉安殿はたたき壊され、宝物と教えられていた教科書を墨で塗りつぶし、中隊長の先生は別人のようになりました。
普段は忘れている苦い思い出が他にもいくつかありますけれど、昨日12月8日の老二人の話題になりました。 もちろん楽しかったことも含めてですが、子供時代を振り返りながら改めて平和の有り難さを思い、それを脅かす雲行きを嘆き合いました。
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5 件のコメント:
やまの世代は戦争を知らない世代です。戦争の悲惨さ残虐さを言葉では知っていても実感としては程遠いです。
それでも戦争の悲惨さ残虐さを伝えてゆくには体験者の経験談しかないと思います。
大詔奉戴日!
身の引き締る思いで見させていただきました
私も戦後の生まれですが、戦争というものの悲惨さは後世に伝えていかなければいけない事だと思います。
子供が小学校時に学校の宿題で、戦争体験談を近所の家に聞きに行ったことを思い出しました。小さい時から”戦争”について学ぶという事はとても良いことだと思います。
始めましてこんにちは、koujiiさん
お勧めで、あなたのブログを開きまし
た、偶然12月8日の記事、感銘を受
けました。実は私も関連記事載せまし
た、覗いてみてください。
大変失礼しました、URL忘れました。
http://blog.goo.ne.jp/goo1553
です。
終戦の年、アリは旧制中学校1年生。
学校にいる上級生は2年生のみ。
3年生からは名古屋の軍需工場へ動員。
体育館は飛行機エンジンの修理工場化して、床は油まみれ。
終戦まで1学期の授業はほとんど休み。
恐ろしい配属将校の軍事教練。
脚絆を巻き、軍歌を歌いながら農具をかついで汗をかいた開墾畑への行進。
モッコをかついで飛行場作り。
農作業の手伝い。
雨が降れば集会場に集められ、雨戸を閉めた真っ暗な部屋で2年生からの説教。
上級生には絶対服従。
上級生と道で会えば直立不動の姿勢で挙手をし、彼らより先に手を下ろすことは許されなかった。
あるとき、向こうからだいぶ年上の先輩らしき人が歩いてきたのであわてて挙手をした。するとやさしい笑顔で挙手を返してくれた。後でわかったが、その人は中学校の先輩で慶応大学の学生だった。クロスペンの学帽徽章がよく似ていたのだが、それに気がつかないくらい先輩に会うと緊張したものだ。
4月から8月までの短い期間ではあったが、多くのことを体験した。
教育というものは計り知れない影響力を持っている。
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